年の瀬も迫ったある日…
背丈よりずっと高い作物が生い茂る畑の中の道を、じいちゃんと二人で歩いていた。
作物の旬を知らないわたしは、その時かき分けて歩く背の高い作物が何だったのかわからない。
わたしは小学校の一年生か、二年生くらいだろうか…
小柄なじいちゃんと並んでも、ずーっと小さかったからたぶんそのくらいの年齢だったと思う。
白川水源のそばにある駅の周りには、じいちゃんが目指す商店(みせ)があった。
その店を一軒一軒回り
「今年もお世話になりました」
という挨拶が済むと、じいちゃんは布袋からお金を取り出して払った。
「なにをしているの?」
と、尋ねると
「しゃくせんばらい」
と、じいちゃんは答えた。
農業を営むじいちゃんちの、一年間の肥料代だったり道具代だったり…
ずいぶん大人になって”しゃくせんばらい”が、”借銭払い”の字にあてはまるのだと気がついた。
その時は意味もわからず、じゅもんのように
”しゃくせんばらい”
と、あたまの中で唱えた。
じいちゃんが亡くなったのは、もう三十年以上も前のことだろうか…
ほかの記憶はどんどんうすれていく中で、”しゃくせんばらい”のことばだけが、鮮明に残っている。
じいちゃんよりずっと長生きをしたばあちゃんもいなくなり、その二人に生を受けた母も両親のもとに旅立っていった。
コロナで遠出をすることはなくなってしまった。
母を想い阿蘇を想うと噴煙をあげる中岳が目に浮かび、やっとふるさとに戻れた母の笑顔が見える気がする。
みんな歳をとり阿蘇(あそ)はどんどん遠くなり、こころの中でどんどん近くなる。