森野きりりの漂流日記

容姿もダメ頭もよくない、おまけに性格も悪いと自分を否定することしかしなかった女の子が、人生の荒波の中で「いやいや何も取り柄がなくても大丈夫さー」ということに気が付いていく長い長いお話です

かなしみの森にいた真理子さん

 

正月休みが終わって、2023年が動き出した。

慌ただしい日が始まる。

 

買い物に出たわたしは、信号待ちをしていてふと上を見上げた。

視線の先に、丘の上の図書館の屋根が見えた。

買い物を後回しにして、図書館に向かった。

 

駐車場はあいかわらず市松模様に敷き詰められた煉瓦だった。

ガタガタと揺れながら、一見おしゃれに見える煉瓦の駐車場を眺めた。

(駐車場を作った人は走り心地を確かめなかったんだろうか…)

と、思っていたのを思い出した。

 

最後に来たのはいつだっただろう。

たぶんコロナ前のことだ。マスクをして図書館に来た記憶はない。

中に入ると、おさえ気味の照明も漂う空気もむかしのまま。

向かう本棚は決まっている。

歳をとってしまったわたしは、がんばって新しい作家を開拓しようという意欲がわかない。

ゆっくりと本棚のあいだを巡る。

 

つと足が止まる。

二年前だったか、三年前だったか…

新聞の広告で久しぶりに小池真理子の名前を見つけた。

夫である藤田宜永さんが亡くなったのは知っていた。だけど、その新聞の広告を見るまでは、そのことは単なる知っていたというだけの領域で、そこに深い悲しみがあることは不覚にも想像していなかった。単なる有名人のニュースの範疇(はんちゅう)だった。

 

「年をとったおまえを見たかった。見られないとわかると残念だな」

藤田宜永さんのそのことばを見て

(読みたい。買いに行こう!)

と思った。何度も

(買いに行こう!)

と思っていたのに、雑事に取り紛れているうちに、いつの間にか忘れてしまった。

その本が目の前にあった。

 

”月夜の森の梟(ふくろう)”

 

この本に会うために、今日わたしはここに来たのだと思った。